興武館記

 明治24年(1891)、初代館長小澤愛次郎は盈進義塾興武館を創設した
目的を「興武館記」にまとめ道場に掲げました。
 現在、道場の玄関を入って正面に掲げてあります。


~輿武館創設の趣旨「興武館記」伊藤恒氏書(道場内に掲額)~
 伊藤恒氏は埼玉県羽生市の素封家で漢学の造詣が深く、医師を業と
し、初代館長小澤愛次郎とは儒学を通じて無二の親友でした。愛次郎
は明治24年(1891)、埼玉県北埼玉郡岩瀬村に興武館を建てましたが、
明治36年(1904)伊藤家の土地の一部を借りて羽生興武館を建設しま
した。この「興武館記」は、建設の目的が書かれています。

輿武館記
北埼玉郡岩瀬邨小澤氏構講習撃剣所
称日興武館請余文以記之夫日本万冠
干万国既巳千有除年其利用於万剣之
術在熟与否猶五穀不熟不荑莫稗也
我国自上古貴万剣弓前次之中古巴降
交以鎗与柳葉万柳葉万委諸僧与女後
世砲術大開以大銃挫強敵以小銃害人

王政維新砲術盛行有脱剣制剣術之技
将墜干地泰平之民飽食暖衣有胃弱脚
気之疾是皆運動不足故也小澤氏常患
之弓興武之挙昇平不弱文不諼武之意
隣里郷党壮年之輩徒而学之非敢動干
戈於邦内一以応於海陸防潔之用二以
供保家護身之具願在止戈之片隅
明治二十七年三月


 第二代館長小澤丘が、「興武館記」の内容を以下のように訳してい
ます。(『小澤愛次郎の遺稿と追憶』より)
「北埼玉郡岩瀬村に小澤氏は撃剣を講習する所を構えた。輿武館と称
する。私に文を請うたのでこれを記す。
日本刀は万国に誇りうるものである。既に千年余りにわたって万剣を
用いる術がある。(略) 我国は上古より万剣を貴び、弓矢はこれに次
ぐ。中古以降槍と薙万を加え、薙万は僧侶や女に委せた。後に砲術が
発展したが、大砲は強敵をくじき、小銃は人命を害す。
王政維新により砲術が盛んに行なわれ、脱剣制(廃刀令)があり、剣術
はまさに地に墜ちんとしている。泰平の民は暖衣飽食して胃弱とか脚気
の病気にかかっているが、これ皆運動不足からきている。小澤氏は常に
これを憂いて太平の世に武を起こし、文に溺れず武を忘れずの意気を示
した。近隣の郷党壮年などこれを学ぶのは、何も騒動を起こそうとする
ためではなく、海陸防衛の用に応えようとするのが第一の目的で、家を
保ち、身を護るためが第二の目的である。戈を止めるにあることを祈り
求めているのである。」

 現代社会においては、創設の趣旨を基礎として青少年の心身を鍛錬し、
将来平和な国家・社会に貢献する人材を育成することが目的です。